つくつくつく短つく短歌たん!!

短歌・俳句に興味がある、創作を楽しみたい人が集って、毎週いろんな作品に出会えます。

つくば現代短歌会の活動を公開!

名前は短歌会だけど、俳句もやってますよ★

 

会員作品










●活動報告

つくば現代短歌会の機関紙『つくば集 創刊号』を2021年5月の東京文フリに頒布しました!

41冊ご購入いただきました。

会員の活動が一つ、機関紙という形として残ってくれて嬉しい気持ちです。






私の1番の歌会

つく短では、オンラインで週に一回ずつ歌会(短歌のお披露目会)、2週間に一回ずつ句会(俳句のお披露目会)を開催しています。

歌会・句会にはそれぞれお題(詠題・兼題)が出されて、その題によって出会える作品は多種多様に!

つく短のお題は破天荒なものも多く、毎週予想外が起こる面白さもあります(笑)

そんな中での一押し歌会を発表!

 

 「二十六音以下歌会」 

橋本牧人

つくば現代短歌会では数々の無茶振りをしてきたけれど、なかでも印象に残っているのは「二十六音以下歌会」だ。本来三十一音あるはずの短歌から五音取っちゃうのだ。無茶である。そんなこんなで、みんな苦心して五音を短歌から奪い取ってきたわけなのだけれど、それぞれの創意工夫が個性的でおもしろかったのでいくつか取り上げたい。

 

あー…………すみません。しか今日、喋ってないな栗拾いつつ/郡司和斗

 

この歌会で最も選を獲得した歌だ。上の句を大きく破調させて音が足りていない違和感を打ち消しつつ、下の句(77)をしっかり定型に収めることで一首としてきちんと形にする力。また、「あー…………すみません。」という台詞から想起される主体の無口、無表情が、この字足らずとお互いに説得力を持ち合っているのだ。テクニカルな歌である。

 

 

馬鹿感情一本目の電柱は抱かれなかった/豊冨瑞歩

 

どういう意味?酔ってるのか?字数の足りない居心地の悪さを打ち消すためか先鋭的な意味を歌に持ち込んだ爆発力のある一首で、とても記憶に残る。「馬鹿感情」とそれ以後に意味の繋がりが見いだせないため、おそらく「馬鹿感情」で初句切れの短歌だと思われる。普通の短歌が一〇〇メートル走だとして、この短歌は七〇メートル走で、この初句切れはもっとも効果的なクラウチングスタートなのだ。そうなんですか?

この歌会は、評も印象的な会だった。

 

 

泡のままじゃ追いつけないよ おいで 私のここへ/橋本牧人

 

この私の歌に対して、神乃さんという会員が、「いちばんやさしい声で再生された。」という評をしていて、そう、歌、って、声で、感情で、そのためのリズムや調子や抑揚があって、いちばんやさしくなれたのなら、この歌のいちばんのリズムはこの音の足りない不完全な立ち姿なんですよね、と思って、感慨に浸っていたのだった。

そんなわけで、ぼくにとっていちばん印象に残っている歌会でした。

 

 

 

 「歪んだ相聞歌会」 

理華

私の一番の歌会と言っても、これを書いている時点でまだ四回しか歌会に出たことがなく、印象深い歌会といえば、初めて見学させていただいた「歪んだ相聞歌会」が思い出されます(初歌会がこれってなかなかファンキーですね)。今回は「歪んだ相聞歌会」をご紹介します。

 

まずは首席。

うつらないテレビにわたしの胸板のうすきがうつりしばしを見いる/橋本牧人

 

全体的に平仮名が多めに構成されている点や「うつらないテレビ」も仄暗い情緒を醸していますが、やっぱり一番のキーワードは「胸板のうすき」!胸板がうすいことが、豊満な乳房やムキムキ大胸筋では絶対に醸せないこの虚脱感や背徳感を感じさせます。「結ばれない恋の大きすぎる苦しみをうすい胸ひとつに閉じ込めているのかしら」といった想像も掻き立てられますね。歌会ではBL説が出ていましたが、私もBL説に一票。色々な解釈ができる三十一音の魅力がよく表れています。

 

 

そして私が「特選」に選んだ、

寒天に呼吸ごと閉じ込めている気泡のどれかがあなたの吐息/林さとみ

 

あなたを、吐息のみならず呼吸ごと閉じ込めています。愛が重い…メンヘラ的思考…?と思いきや、吐息を閉じ込めた先は、たくさんある気泡のどれかなんです。愛が重いのか薄いのか、本気なのか遊びなのか、はっきりしろよ!と、第三者をイラつかせるパワーこそがこの歌が「歪んだ相聞歌」たる所以ではないでしょうか。本気か遊びかはっきりさせない方が幸せなんだろうなと思わせる危うさも孕んでいます。

 

 

最後にもう一首。

フラッペを砕くあなたの指先を丁寧に見て「もっとやれ」とう/小川竜駆

 

「あなた」に砕かれるお手頃ドリンクをみて喜ぶというなんとも複雑な嗜虐心。小学生の好きな子をいじめちゃう気持ちなんて比べ物にならない歪みようです。でもどこか理解できてしまう、多くの人が持つ残虐性、いやらしさが描かれていてはっとします。

フラッペや寒天が欲しくなりますね。

 

 

 

 「何かしら画像を用いた歌会」 

神乃

歌も良いという評があった歌会。Twitterに作品の画像が掲載されている。

画像はこちらから

司会が神乃だったため、歌会が近づくにつれ続々と画像が送られてきて詠草一覧を作るのが楽しかった。神乃は人間の腹部に歌を書いた画像を提出した。(腹部の持ち主は歌会で出た評に対して「臍を褒められたのははじめてだ」と言っていた)

司会が作品をディスコードのチャンネル送り、それに対して参加者が評を音声やチャットで送るという形式で歌会が進むが、画像を送るのに手間取ってしまった。「神乃さんがわちゃわちゃしているのを聞いているのは面白い」と言われたので安心してわちゃわちゃすることができた。

歌会では最初に永井文鳥さんの作品を扱った。橋本牧⼈さんの「え、ちょっと待って、これ神乃さん選んでるってことは神乃さんのじゃないの!?」というチャットでの発言により、突如人狼が始まった。神乃はつくたんで行われた他の歌会でも文字だけでなく画像や音声を用いて詠草を提出してきた(実行できなかったが、手紙形式で香りとともに郵送しようとしたりアイスの棒を提出しようとしたりしたことがある)が他の方の文字以外を用いた作品をみるのは新鮮で、その人の普段見られない一面を見ているようで興味深かった。

これからも文字だけにとらわれない短歌の表現をしていきたい。他の人の作品ももっと見たい。

 

 

 

 ○○さんいらっしゃい歌会 

豊冨 瑞歩

  つくば現代短歌会の存在を知ったのは大学入試合格直後のことでした。合格以前から短歌繋がりで知り合っていて偶然にも筑波大学に在学していた先輩から、授業履修や物件探しなど大学生活について質問しているとき、余談のように短歌会の存在を教えてもらった

のです。大学生になっても短歌を作り続けたいという気持ちがあったので、そのまま入会に心が傾きはじめました。

それからしばらくして、歓迎会をしていただけることとなりました。新入生がまだ私しかいない状況にも関わらず企画してくださってとても嬉しかったです。この歓迎会が私にとって初めての歌会でした。緊張しすぎて味がわからなくなっているサイゼリヤのたらこパスタを食べつつ、自分の思うままに評してみたら、先輩方がよく褒めてくださって安心したことを覚えています。

 

脳みその「のう」と「うみ」を濾し固めインスタントに消費している/竹下太崇

靴下を干すのはパズル組み立てるようで……あれ?片方どこ行った?/永井文鳥

遠くへと行くと云ふ人こんなにもあかるい舟を我に残して/橋本牧人

 

予定調整しやすいなどのメリットがあるオンライン歌会ですが、全員の顔が見えるわけではないので、対面歌会よりは寂しいものだと感じます。コロナ禍が収まって、卒業までにもう一度対面歌会が行えるように願っています。

 

 

 

 三大学合同歌会 

永井文鳥

「私の一番の歌会」というテーマでは、楽しいことが書けません。

つくば現代短歌会として初めて他大学と合同歌会をしたのが三大学合同歌会でした。筑波大学、東京外国語大学、二松学舎大学の短詩に関するサークルで、「体を動かしながら考えた歌」「単体で世界観が確立している歌」という題で詠んだ歌を持ち寄り、選評し合う形式の歌会でした。この歌会は、いまのぼくの歌会に対する価値観を植え付けるきっかけになった会だったとも思います。

ぼくは次のような歌を提出しました。「単体で世界観が確立している歌」の方です。

 

 

わびさびがうすくくすんだ世の中の人類(遺伝子組み換えでない)/永井文鳥

 

この歌に「だってつまんないじゃん、これ」って、語気強めな評が飛びました。この「評」で、その歌会においてこの歌は「つまんない」歌になってしまった。ぼくも「あ、この歌つまんないんだ」って思いました。

その後この歌は「未来」という短歌雑誌で、「上の句をもっと辛辣に! 凄くいい発想!」との評を受けました。この歌がぼくの中で「つまんない歌」から「改稿すべきだがいい発想の歌」に変わり、あの歌会でぼくが暴力を受けたのだと思った瞬間でした。

酷評それ自体や、「好きだ」と言われないことを暴力だと言っているのではなくて、自分の主観でしかないものを、語気を強めて、あたかも中学の生活指導部長のように述べるのが暴力だと思うということです。その歌が好きなら、どこがどう好きなのか徹底的に考えて述べる。嫌いなら嫌いで、なぜ好きになれなかったか徹底的に考えて、述べる。評ってそうやるものだと思っていました。そういう意識で評している人、評せている人には、わずかしか出会えていません。自分の評でも常にそれが果たせているとは思っていません。

いつか、参加者それぞれが自分の歌の好みを徹底的に語るという歌会に出会って、このテーマで楽しい文章を作りたいと、思ったり思わなかったりします。






俵万智「サラダ革命」評

俵万智さんの連作(一連の作品として扱われるひとかたまりの短歌)である「サラダ記念日」。

現代口語短歌として名を馳せた作品を、つく短の会員が独自の視点からよんでいく。

 


 語り 

豊冨瑞歩

 俵万智(さん)の第1歌集(歌集:著者の短歌が並べられている本)である『サラダ記念日』。収録されている30首連作の一連にも「サラダ記念日」というタイトルが付けられている。連作中で最も有名な歌は

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

であろう。

 

俵万智の短歌の特徴は【読者に共感させる語り】である。『サラダ記念日』が他の歌集を画してミリオンセラーになったことは、当時俵万智が現代口語短歌作家として期待されていたのも一因であろうが、やはりこの共感させる語りのうまさが大きく売上に貢献したのではないかと考える。普段から短歌に接しているわけではないという人の心までも掴んでいく素直な語りが魅力の一冊だ。『サラダ記念日』をきっかけに現代短歌を知る・詠んでみようとする人の数は少なくない。

以下では、俵万智30首連作「サラダ記念日」の中から2首を読む。

 

① 奪い合うことの喜び一身に集めてはずむラグビーボール

ラグビーとはなかなか見た目の激しいスポーツで、試合中ではボールを奪い合う光景がよく見られる。奪い合いの中にあるボールは、意外にもボールらしく「はずむ」挙動をする。ラグビーボールを囲む人々が共通して持っている「喜び」を「はずむ」ボールに透視させるような主体の視点には、これまでの歌(※1)とは異なる前向きな感情が見えてくる。明るい語り口の歌である。

※1 一般的に、短歌連作において短歌の並べられ方に注目すると、一連の短歌を物語のように読むことが出来るとされている。このラグビーボール短歌の前に並べられている短歌では、失恋から立ち直れていない状況と思われる主体の様子が多く述べられている。また、このラグビーボール短歌の後には、失恋から立ち直って次に進もうとする主体の様子が述べられた短歌が並ぶ。したがって、このラグビーボール短歌は、連作中において主体が失恋から立ち直る象徴のようなものであると考えられる。

 

② 明日まで一緒にいたい心だけホームに置いて乗る終電車

「心」を形見のように捉えていて面白い。「終電車」ということで、時間的にもその日のうちにもう一度「ホーム」へ戻ることは不可能に近いと思われる。人と別れる寂しさを比喩などによって難しく述べるのではなく、あえて「明日まで一緒にいたい」というように「心」の言葉遣いのままで取り出してくれた。これが冒頭で述べた俵万智の【共感させる語りのうまさ】である。

 

 

 

 それはクセのないウイスキーのような 

永井文鳥

スコッチウイスキーにハマりました。特にアードベッグ(Ardbeg)というウイスキーが好きで、その香りをかぐだけでうれしくなります。アードベッグは、特に「スモーキー」とか「ピーティー」とか言われるタイプの、クセが強いウイスキーとして知られています。

で、ここ最近、「スモーキー」とか「ピーティー」をあまり感じないウイスキー、好きじゃないな、物足りないな、って感じるようになりました。ネットとか見てても、クセの強くないウイスキーには「甘ったるい」とか「感動がない」とか、そういう評価が並びます。特にスコッチが好きな人が、バーボンとかに対してそういうことを言っているきらいがあるように思います。

なんでこんなこと「サラダ記念日」の評で言ってるかというと、「サラダ記念日」の評価も「スコッチ好きから見たバーボン」みたいなものなのかなと思うからです。正直ぼくは「サラダ記念日」ではあまり感動できなくて、なんというか、「サラダ記念日」の歌はとても素直な言い回しで、逆に言うと、もっと独特の世界観が、「クセ」が欲しいな、なんて思ったんです。

そんな感想を抱くのは、きっとぼくが短歌の世界の中でもわりと「クセ」がある、作者オリジナルの言い回しとか、常識を外した発想とか、そういう要素が濃い短歌にたくさん触れてきて、そういうものに価値を感じるようになっているからだと思うんです。それに比べると「サラダ記念日」の歌は、割とあっさりしている、クセのないウイスキーのような味わいなんです。

じゃあそういうクセのない作品に価値がないのかというと、そんなわけがない。バーボンはクセが少なく、甘く、香り豊かなウイスキーです。スコッチと比べると安価な瓶も多いですが、それぞれの蒸留所のこだわりにあふれたものばかりで、むしろスコッチよりファンが多い。ぼくももともとバーボン好きだったな。書籍『サラダ記念日』は250万部以上の売り上げがありますし、そういう意味でも「サラダ記念日」って、割とバーボンなのかなって思ったんです。

それを強く感じた歌を、最後に何首か紹介します。

 

 

旅立ってゆくのはいつも男にてカッコよすぎる背中見ている

 

コンタクトレンズはずしてまばたけばたった一人の万智ちゃんになる

 

会うまでの時間たっぷり浴びたくて各駅停車で新宿に行く

 

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

 

 

 

 「この味がいいね」 

神乃 

「この味がいいね」

「なに、サラダ記念日?」

少し熱い餅巾着を嚥下して、ハルの方を見る。ハルは白米をもぐもぐと口に含んで「んー」と肯定。その「んー」が肯定なのか、考えているだけなのか、甘めの否定なのかもう分かる程度の時間を共有してきたことを思い、ニマニマしてしまいそうになる。

「せめてサラダ食べている時に言いなよ」

意識的にぶっきらぼうに言いながら、カット野菜にドレッシングをかけただけの皿をハルの方に寄せる。クルトンなんてしゃれたものは乗っていない。時期でないトマトも高いから乗せない。ゆで卵もおでんの卵と被ってしまうから乗せない。シーザードレッシングだけがそれを「シーザーサラダ」たらしめているサラダだ。

「んー」

甘めの否定。ハルが、シーザーサラダが一番好きだと言った(本人曰く、一番マシだと言っただけで好きではないらしい)からシーザードレッシングを買ったのだ。ドレッシングは玉ねぎのやつが好きなのに。シーザーサラダは好きでも嫌いでもなかったがドレッシングを消費するために食べていたらなんとなく好きになってきた。

「野菜も食べなって」

ハルは不服そうにむしゃりとサラダを食べた。おでんの大根も食べていないことを知っているんだからな。

「んー……ごはん食べててさぁ『この味がいいね』って言うかなぁ」

「たしかに。『おいしいね』とかなら言うかもしれないけど」

「サラダだからさ、味はドレッシングに依存しているじゃん。だからドレッシングを褒めていると思うんだよね。ドレッシングを選んでいる?」

「そのシチュなら言いそうだけど、ドレッシング選んだだけでサラダ記念日制定する? せいぜいドレッシング記念日とか選択記念日じゃないかな」

「んー、たしかに。『この味がいいね』と君が言ったから……あれ、何日だっけ」

「七月六日?」

そういえば、この歌はもう一般教養だって威張って良いくらいには誰でも知っている気がする。小学校か中学校の教科書に載っていたのだっけ。自分とこの短歌の出会いが思い出せない……短歌に手足が生えて「ふふん、一般教養だぞ!」と胸を張って威張っているところを想像してちょっと笑いそうになってしまった。

「何ニヤニヤしているの」

「別に」

シーザードレッシングをかけただけのサラダはいつもと変わらない味。

「この味がいいね」

こういう時に言ったのかもしれない。今日は何日だっけ。

 

 

 

 静かな魔法 

理華

サ行音ふるわすように降る雨の中遠ざかりゆく君の傘 

『サラダ記念日』の始まりに相応しい「サ」が気持ちいい!詠み手はきっと、「君」の傘、さらに言えばその中の「君」の背中にしか目が行っていないだろうに、それでも自分と「君」を隔てる雨の音が「サ行音をふるわす」と見つけて言葉にするその冷静さ。私は長い別れの歌と解釈したので、詠み手の、寂しいのにどこか冷静になってしまうところがより切なく、いじらしく感じました。「君」の姿が豆粒になるまで見ているんだろうなあ。

 

ゴアという町の祭りを知りたけれどここはそらみつ大和の国ぞ

インド西海岸のビーチリゾートで毎年二月に開かれるというゴア・カーニバルの、エスニックで華やかな風を感じた後、語義不明の、でもなんだか日本人の好きそうな枕詞「そらみつ」で日本に着地。異国のお祭りに憧れるけど、でもここ日本だしなあ、なんて残念そうにしつつもどこか故郷への愛がにじんでしまう、日本人らしい歌に聴こえました。

 

誰を待つ何を吾は待つ〈待つ〉という言葉すっくと自動詞になる

ひたすら待つ、待つ、待つ…。待ち続けているうちに、あれ?私は何を待ってるんだっけ?てかそもそも待つって何だっけ?なんて、脳内で<待つ>のゲシュタルト崩壊が起こっている様、と私は解釈しました。「何か」を待つことに意味があったはずが、「何か」を失った<待つ>はただの状態、自動詞になってしまう。気づけば目的を既に無くしているのに、形骸化した行動だけは残る、続いていく。淡々とした歌ですが、ふと読み手が薄ら寒くなるようなパワーを持っていますね。

 

コンタクトレンズはずしてまばたけばたった一人の万智ちゃんになる

コンタクト民スタンディングオベーションの歌では?と個人的にずっと思っていた歌!私は初めてコンタクトレンズを外した時、「魔法が解けた」と思いました。その、ちょっぴり残念だけどなんだか心地よいような安心感を「たった一人の万智ちゃん」と言い表してくれたことに歓喜です。ポイントは、ただ外すだけではなくてまばたくこと!ぱちぱちしてやっと、高度管理医療機器(=魔法)を脱いだ丸腰の自分に戻ったことを感じるのです。あんまりよく見えないけど、この視界を持っているのは地球でたった一人、私だけ。特に月を眺めるとその感覚が味わえて、おすすめです。